堺のまちと古墳を紐解く

4月から新たに始まりました「再発見 !さかい散走」、今回が第一回めです。

今日の散走のテーマは古墳、そして水。さて、どんな紐解きになりますか。

シマノ自転車博物館を出発してまずは反正天皇陵、百舌鳥古墳群の北端の古墳です。ここで、今日のお題「何故巨大古墳が作られたか?」のお披露目です。

なんとなく問題意識を持ちながら仁徳天皇陵へと向かいます。

途中、仁徳陵の外堀に繋がる水路を発見。これは堀への流入口へとつながっている様子。

仁徳陵に着くとまずは百舌鳥古墳群ビジターセンターで世界遺産となった古墳群を俯瞰するシアターを視聴しました。
そして、拝所前で堺観光ボランティアガイドの方から仁徳陵の説明を受けます。
明治以降宮内庁の管理下で詳しい話が分かっていないとも。
今の陵墓に生える樹々はマツ、杉、檜、樫など、明治政府になって植林されたようです。

ということで、今日の本丸堺市博物館の学芸員の方にお話を伺いました。

百舌鳥古墳群の特に海に近い仁徳稜や反正陵などは上町台地の南端に位置し、等高線に沿って陵墓の向きが決められ、海から見たときの威風を意識したことで南北に配置されたようです。東側の古墳は街道からの見え方が考慮されて東西に配置されたとのことです。

古墳が築造されたころは堀に水は殆ど無かったようです。実はこの地域には人が暮らしていた痕跡が無く、水の便も悪く人が住むには適さなかったようです。
それがこのような大規模古墳群の立地に選ばれた背景だったとのこと。
つまり海外からの来訪した人々への威容を見せる為、そしてそのための立地条件が適っていたということのようです。

堺近辺は災害も少なく、昔から人が暮らしやすかったのかなと勝手に考えていたのですが、そうでは無かったようです。

学芸員の方の話は、鉄の由来から埴輪の話、そして祭礼を司った土師氏、その後の菅原氏や藤原氏の話へとつながるのですが、これがとても面白いのです。とても限られた時間では無理。又の機会にとっておきましょう。

さて、堺市博物館を後に、仁徳陵の南に位置する履中陵に向かいます。ここでも堀の西端の堰に注目。掘の水面はこの堰の余水吐でコントロールされています。
仁徳陵に戻って同じく西北側の堰を見ると今では使われていない樋門(跡)があります。

ここから流れ出す水路に沿って西に向かうと、住宅街の中を暗渠と水路が繋ぎ環濠の南端土居川に注いでいました。
古墳時代から堀の水を灌漑用水に利用する中世以降にかけてどんなふうに人々の暮らしぶりが変化してきたのでしょうか。

古代から中世そして近代へ。思いを馳せながらこの日の散走を終えました。

次回はこの環濠都市を再発見します。

いつも通りなれた道もゆっくりと寄り道しながら走ると新しい発見があるかも知れません。皆さんも何かテーマを持って散走をしてみませんか。

  • 開催日
    2026年4月25日 土曜日
  • 天気
    晴れ時々曇
  • 走行距離
    13km
  • 参加者
    5人+インストラクター3人

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